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恋する小鳥

Irreplaceable 

くやしがり

重くて上等!


被災地へボランティアに行かれた方や、
仮設住宅建設に雇われて行った職人の話を
聞く機会が多くなってきた。
被災地の建設には人出が足りないのか、
パートナーには、九州の建設会社から
水道職人を探してほしいという連絡もきた。
東北に建てるものを、東京の会社が仕切り、
下請けに九州の会社が出張り、
職人は関西からも集めて行く。
全国経由で沢山のひとが、
仮設住宅に奔走していると言うべきか、
下請けの下請けが出張るほど、
予算は増していくことを憂うべきかは微妙なところ。
それでも早く人に優しい家が建つことが大前提で、
過酷な生活が少しでも和らぐために
沢山のひとが全国で働いていて、
その労働が対価を得るのは、当然のことで。

以前、御巣鷹山のルポを読んだことがある。
事故後、散り散りになったご遺体の遺品や一部を、
何日もあの険しい山中を歩き回って集めたのは
自衛隊員だったことを、子供ながらに驚き、涙が出た。
当時は今よりももっと自衛隊を論じることがタブーで、
その救助に注目が集まり賞賛を得たのは
地元の消防隊などだったけれど、
草の根かきわけるようにして、猛暑のなかを、
歩き回って肉片を集めたという記事を読んで以来、
私はどんなことがあっても、
自衛隊の方に、足を向けるなどということは
あってはならないと思った。すこし、青い記憶。

そして先日、自衛隊に慰問に行かれた
老教授からいただいた箱入り自衛隊の菊御紋饅頭。
「がんばろう日本 ありがとう自衛隊」
制服を着たかわいいキャラクターが敬礼している。
いただいた教授の言葉が忘れられない。
「死体を見つけては、何キロも手でかついで運んでくる。
死後何日もすぎたむごい死体も、
背中にしょって運んでくる。
あんなことをしてくれるのは、日本で彼らだけ。
だから、こういう新商品が出たら、
わしは迷わず買う。できる限り買う。」
思わず御巣鷹山のルポを思い出した。
輸入品の梱包に使われた外国の新聞を開けば、
日本では映されることのない、
被災地の、もっと生々しい、遺体の写真がのっている。
泥の中から手が出ていて、
それを「母だ」と中年の女性が、
泣きながら掘り出している写真が大きく1面にあった。
世界が見ている震災ニッポンとは、この悲劇だ。
あれほど援助の手を差し出してくれたのは、
これらの写真に映る、ご遺体のむごさや、
遺族の無念がとうてい見過ごすことのできないものだからだ。
原爆後の広島の映像と、津波後の今の被災地の映像が、
デジャヴのように同じで、心底胸を突かれた。
ありえない。あってはいけない。
思わず伸ばした世界中の手は、
本当に被災地に届いているんだろうか。
少しでも希望になっているんだろうか。
義捐金はどこにいったんだろうか。
復興は進んでいるんだろうか。
できることはなんだろう。
偽善でも、なんでも。
頭のなかに映像が映る。

ピカドンの大きなきのこ雲。
人々の前に降り立ち、落涙された皇太子妃。
飛び回るハエ。
エジプトの、荒れ叫ぶ群集。
防護服に身を包んだ自衛隊の男性。
避難所でラジオ体操を奏でる自閉症の少年ピアニスト。
国歌を認めない首相。
坂本九さんの大きなモノクロの写真。
電気のスイッチを消すときに、
心に一瞬よぎる、小さななにか。

たったひとつのお饅頭を、
これほどかみ締めながら食べたことがあるだろうか。

海外へ、まだ一度も行ったことがないときに、
海外青年協力隊の帰国隊員たち二名と知り合った。
ひとりは、女性で、
「海外では、乞食に、絶対にお金をあげてはいけない」
と言った。
ひとりは、男性で、
「体を黒く塗って、土人の真似をして、笑いを取るのは最低だ」
と言った。
前者は、子供にお金をあげても、親が取るだけ、
それで生活しているひともいる、
生きていければそれ以上望まなくなる。
だから抜け出せない、とかいう理由だったと思う。
後者は、アフリカに派遣されて、
黒人差別につながるすべてのものに
怒りが直結している、シンパシーの強いひとだった。
私は、彼らの意見があっても、
すべてを決め付けるのではなく、
フランクにありたいと思ってアフリカに行った。
そして、自分のいる世界で、
毎日物乞いに会わない日はないことを知った。
自分が日本人である限り、
普通のひとでも「金くれる?」と聞いてくることがある。
時計をくれだのペンをくれだの、初対面でも突然言われる。
もうこれは、運命だ。
あげる側 として生きているのだと承知した。
それからは、こだわらなくなった。
いつしか、お菓子と小銭は常に持ち歩くようになった。
物乞いの子供に金を渡しても、
親が取るだけだから駄目 という人もいる。
あげないほうがいいよ という忠告は何度も聞いた。
子供にちゃんと食べさせたいなら、
その場で食べれる、できるだけ甘くて
炭水化物の多い、菓子を切らさないようにするほうがいい。
それでも、お金を渡して、親がとって、
何が悪いんだという気もしてきた。
子供が金を持つより、大人が金を持って、
少しでも親が豊かになるほうが、希望はあるような気がした。
母親の愛を信じるほうがたやすかった。
ストリートの子供が薔薇を売れば、
どんな汚い薔薇でもいいところを見つけて買ったし、
お菓子はかばんの底をついても、
子供が連なれば店に入ってでも買ってみんなでわけた。
家のない家族は、とにかく子沢山なのだ。
一番下の赤ん坊を抱いてついてくるおねえちゃんに、
誰も靴を履いていない少年たちに、
飴やウエハースをあげたくて何が悪いのだ。
好きでそうして何が悪いのだ と。
中国に母のつきそいで行ったときは、
日本への恨みで石を投げられた昔の記憶がよみがえって、
後ろをついてくるおじいさんに手を出されたときは驚いた。
仇であろう日本人に、中国の方が手を出してくることは、
何度経験しても動揺してしまう。
そのせいか、なぜかあのときは嬉しかった。
貧しいからくれと言われて、その時自分にあげられるお金があるなら、
私はどんなに少なくてもわけてあげるべきだと、
やはりそう思っているようになっていたのだ。
一緒のツアーに参加していたサラリーマン風の男性グループは、
彼から目をそむけて、足早に逃げていてもっと驚いた。
ボロボロの衣服に身を包んだ老爺に、
一生に一度、小銭を渡してやることが、
彼の年収の、どれだけの損害となるというのだろう。
やせこけたストリートのおじいさんに、
紙幣を渡して「ちゃんと食べて」とジェスチャーすると、
うなづいて手を合わせたので、思わずそんなことさせたくなくて、
その手を握った。がりがりだった。ガサガサだった。
私は金持ちではない。何億と寄付する尊い成功者ではない。
結婚もしていないし、将来もまったくない。
家も自分の物ではないし、なんの保障もない。
寄付するくらいなら、もっと働いて母に渡せと兄弟なら叱るだろう。
弱者ほど、かっこつけたがるもので、
私はきっとそれに、ピンヒットしているだろう。
なんといわれようが、詐欺にあってようが、
迷うから、駄目になる。その場でぱっと、切り分ける。
大きなお金は、流れも大きくて、なかなかたどりつかない。
今そこにある、100元のほうが、
チョコバーのほうが、何倍も嬉しいことがある。
お金をあげることが、見下しているみたいで、
嫌だというひとがいる。
ホテルのチップは、義務だとはりきって用意するのに、
物乞いには触らないように、騙されないように、
目をふせて身を硬くするツアー客をバスに乗せる。
自分が言うべきことではない。
自分は自分の思うようにするだけ。
ボランティア道とか、正しい海外生活のススメ とか、
肌で感じて、自分なりの道を見つけるもの。
タクシーに乗ったら、タバコをすすめられる。
「吸わない」と断ると、現地の音楽をかけてくれる。
ふっかけてきたら、応戦する。
それでも、笑う。
たどたどしい言葉の相手をし、
外国人客という緊張を敷いて、
そのうえちゃんと目的地に着けてくれたら、
すこしはずむ。「おつりはいらない」
何十円で、お互いハッピーになる。
それは、きっと自信になる。

昨日、陶器まつりに出掛けた。
欲しい花器は買えたので、
あとは満遍なく母の荷物持ちをしていたら、
賑わう店が連なるなか、ぽつんとひとり、
めがねの男性が座っている出店があった。
福祉作業所の焼き物のお店だった。
その作業所は、年末の干支ものの製作などをしていて、
時々、新聞で見かけるし、
出勤していく方を見ることもある。
のぞいて、驚いた。
まず、器が重い。恐ろしく重い。
軽い器ばかりを触ってきたせいか、余計にそう感じた。
土が、違うんだろう。きっと、軽く焼くには
高価な土がいるんだろう。
市の財政で支給される土が、
このずっしりとした重さなんだろうと思う。
でも、安い。つけられている値札が安い。
重さを考慮しても、何万円の器が
太陽にさらされて堂々と売られているなかで、
100円とか、400円とか、
物の大きさからしても、
見た目のユニークな可愛さからしても、
今回の陶器まつりのなかでは、
全体的に安い値段がついている。
それなのに、誰もいない。
作業所の黄色いのぼりがはためている。
私は彼らを知っている。
新聞で読み、バスを見る。
植木鉢は、かわいい。
重さは目をつぶれる程度。
値段は安い。
私が買わなくてどうするんだと思う。
この世界が優しい世界だと言うならば、
彼らの店は、もっと人が集まっていていいはずだ。

だけど重くて沢山持てそうにないから、
一番大きくて高い物を買うことにした。
それが冒頭の植木鉢。
100円玉を、やっつ数えた。

対価に払うお金があって、
寄付で箱にいれる善意があって、
一生に一度しか会わないひとの手を握りたくなる衝動があって、
それが運命を享受した、ひとの営みなんだと、ふと思う。
帰り道の悔しさはなんだろう。
どうしてこれが800円なんだろう。
もっと高い値がついていいはずだ。
どうして作業所というだけで、
値段が安く設定されるのだろう。
彼らが不自由して作ったものならば、
もっと高くてもいいはずだ。
健常者より作るのに時間がかかるなら、
それにふさわしい対価であるべきだ。
私は福祉の専門家でもないし、
詳しいことはわかっていないんだろう。
じゃあ2000円の価値があるとか言って、
もっと払ってくればいいじゃん と言われると、それは違う。
全部買い占めてあげればいいじゃん と言われても、
やっぱり違う。
うまく書けないけど、それは違うと思うのだ。
なんというか、不条理だ、
不条理の対岸側に立ち位置があるのに、
そんなことばかり考えている自分がいる。
老教授の言葉を思い出す。
「わしは迷わず買う。できるだけ買う。」
同情だとか、そういう論議は、
私の頭のなかでは、タマゴから鶏のようなもので、
ぐるぐるまわって、まわるだけまわって、
もうたどりつかないことを知っている。
暑い夏。
原発の是非で、鐘の音に集中できなかった慰霊祭。
私は健康で、働けて、
野菜がおいしいだけで涼しくなって、
わずかにカフェイン中毒ぎみ。
いたって普通の一般人だ。
今ここに原爆が落とされたらどうしよう。
大地震ですべてが崩壊したらどうしよう。
戦争で次々と失ったらどうしよう。

また考えた、おじいちゃんとの夏。
毎年夏は、すこし悔しがりなひとになる。








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Category: 鳥以外のこと
Published on: Mon,  08 2011 14:55
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